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映画『台湾アイデンティティー』

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【2013年/日本/102min.】
1985年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの半世紀、日本の統治下にあった台湾。
敗戦により日本が去ると、今度は蔣介石率いる国民党がやって来て、全てが一変。
戦前日本語で教育を受け、日本人として生きてきた“日本語世代”の老人たちが
時代に翻弄され続けた半生を語る…。
 
 
酒井充子監督作品は、今年2月に『空を拓く~建築家・郭茂林という男』(2012年)を観たばかりなのに
半年も経たぬ内にもう新作。 なんて精力的な仕事っぷり。
早速(一週間前になるが…)公開初日の初回に観に行く。この日、2回目の上映はトークショー付きだったので
皆それを狙い、初回は空いているだろうと読んだら、大間違い。
チケット売り場のオープン前に到着したのに、すでに長い列ができていて、希望通りの席にはつけず。
それでも椅子に座れただけマシで、通路にお座布団を敷いて観る人も出るほどの大盛況。
 
この初回は、作品上映のみかと思いきや、開映前に、酒井充子監督がちょっとした舞台挨拶を。
思い掛けず、ちょっと得した気分。
この時、男性プロデューサー(…でしたっけ?お名前失念)が、「『台湾人生』(2009年)から
この新作を発表するまで4年掛かりました」と発言。 えっ、『空を拓く』は無かったことに…?
『台湾人生』の制作スタッフと酒井充子監督とのコラボは4年ぶりという意味だろうか。
 
確かに、酒井充子監督作品を分類すると
郭茂林というひとりの建築家に焦点を当てた『空を拓く』だけ若干毛色が異なり
『台湾人生』とこの『台湾アイデンティティー』は同系列と言える。
 
2作品の共通点は、台湾日本統治時代に日本語教育を受け、
日本人として生きた老人たちのインタヴューをまとめたドキュメンタリー作品であるということ。
 
2作品の相違点は、主に日本統治時代に焦点を当てた『台湾人生』に対し
『台湾アイデンティティー』では主に敗戦で日本が去った後に焦点を当てているという点。
そうは言っても、終戦の1945年できっちり線引きされている訳では無く
前後に跨る話はやはりどちらにも出てくるので、両作品はなんとなく似た“姉妹作”といった感じ。
もしくは、『台湾人生』の延長線上にある“続編”のような位置付けの作品が『台湾アイデンティティー』。
 
 
本作品の主な登場人物は、以下の6名。
 
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                                                          (クリックで拡大)
高菊花(日本語名:矢多喜久子/族名:パイツ・ヤタウヨガナ)
1932年(昭和7年)、阿里山鄉達邦生まれ。
鄒(ツォウ)族のリーダー高一生(日本語名:矢多一生/族名:ウオン・ヤタウヨガナ)の長女。
戦後は歌手に。 父は逮捕され処刑。
 
鄭茂李(日本名:手島義矩/族名:アワイ・テアキアナ)
1927年(昭和2年)、阿里山鄉達邦生まれ。
高菊花の父方の大叔父。 18歳で海軍に志願。 高雄の左營港で敗戦をむかえる。
 
黄茂己(日本名:春田茂正)
1923年(大正12年)、台湾南西部、莿桐鄉生まれ。
旧制中学卒業後、台湾少年工の一員として、神奈川県にあった高座海軍工廠へ。
台湾帰国後は、定年まで小学校の教員として働く。
 
吳正男(日本名:大山正男)
1927年(昭和2年)、台湾南西部の斗六生まれ。 現在横浜市在住。
東京の中学校在学中に陸軍特別幹部候補生に志願し、北朝鮮で敗戦。
中央アジアの捕虜収容所で2年過ごしたのち日本に戻るが、二二八事件が起きたこともあり
台湾の父親から日本に留まるよう勧められ、現在に至る。
 
宮原永治(台湾名:李柏青/インドネシア名:ウマル・ハルトノ)
1922年(大正11年)生まれ。 現在インドネシア・ジャカルタ在住。
18歳で志願。 戦後インドネシア国籍を取得した在留日本兵で存命のふたりの内のひとり。
日本企業のジャカルタ支社に勤務時代、日本への出張の際、家族に会うため台湾へ。
これが最初で最後の里帰りとなる。
 
張幹男(日本名:高木幹男)
1930年(昭和5年)、台湾人の父と日本人の母との間に生まれる。
新竹工業學校在学中に敗戦。 1958年(昭和33年)台湾独立派の日本語冊子を翻訳しようとして
反乱罪で逮捕され、28歳から36歳までの8年間、火燒島(現・島)の政治犯収容所に収監。
1970年(昭和45年)自ら旅行者を興し、政治犯の受け皿となる。
 
 
色んな意味で一番印象に残った人物は、紅一点の高菊花さん。
とにかく派手! 紫のトレーナーに真っ赤なベストを合わせたり、真っ赤なネイルエナメルでお洒落したり
帽子を取ったら、頭がパンチパーマだったり…。
古い写真を見たら、若かりし日はコニー・フランシスばりのモダンな美人さんで
父・高一生はじめ親族も皆がみんな彫りが深く、昔の銀幕スタアみたい。(↓)
 
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菊花さんは、作曲家の父を持ち、幼い頃から音楽が身近な環境に育ったこともあり
戦後は生活の糧を得るため歌手となり、人気も収入もかなりのものだったと言う。
歌のレパートリーは広く、オペラから<知床旅情>、そしてヨーデルまで…!
一見台湾によく居るド派手なファッションの気さくなおばあさんなのだが
有名な台湾原住民エリートで鄒族のリーダーだった父・高一生は
1952年、いわゆる“白色テロ”で捕えられ、1954年に銃殺刑にされている。
獄中、家族に向け日本語で書いた手紙は大変な達筆で、知性と人柄がうかがえる。
そんな手紙の中に、“ウサナアオ”という意味不明な単語。
実は、彼ら原住民の言葉で、“会いに来てほしい”という意味。獄中で書かれた手紙は全てチェックされるので
検閲官が理解できない単語を暗号のように使っているのだという。
菊花さん自身、監視され、何度も取り調べに駆り出され
最終的には1971年、無実でありながら“自首證”を提出。
どんなに悔しくても、事を収束させるため、家族を守るための苦渋の決断だったのであろう。
菊花さんのような老人は、台湾では必ずしも珍しい存在ではないと察する。
台湾でよく見掛ける他のド派手で気さくなおばあさんも、重い茨の過去を背負っているのかも知れない。
 
 
さらに、印象に残った言葉も。 これは、菊花さんの大叔父にあたる鄭茂李さんの言葉。
国のために戦うことは、当時の男の子たちにとっては誇らしい事だったので、鄭さんも18歳の時、海軍に志願。
ところが、そんな事を懐かしそうに語る鄭さんの表情がその内みるみる沈み、
目に涙を溜めて、ポツリ、「もし戦争に勝っていたら、政府のために一生懸命働いた台湾人を
日本人はもっと可愛がってくれたのではないか…」と。 切ない…。
好む好まざるに関係無く養子になった幼子が、養父母に良く思ってもらいたい一心で尽くしまくり
ある日突然諸々の事情で、「ゴメン、あなたの面倒をもう見られなくなった」と突き放されたら…?
なんかそういうシチュエーションが重なった。 日本が台湾人の心に残した傷は深い。
 
他の老人たちも、日本や国民党政府を露骨に罵ることはほとんど無く、
みんな口々に、「生まれた場所が悪かった」、「生まれた時代が悪かった」、「運が悪かった」、
「これも運命」と言う。 だから余計に切ない。
 
 
 
“かつて日本人だった人々”の、日本人でいても悲劇、日本人じゃくなくなっても悲劇…、を改めて感じる。 
『台湾人生』と似た作品なので、それだったら先に発表された『台湾人生』の方が当然鮮烈な印象となり
『台湾アイデンティティー』に目新しさが欠けてしまっているのは否めない。 でも、それでも良いのだと思う。
徐々に改善されてきているとはいえ、日本では、ろくに台湾の歴史も知らずに
漠然と台湾を“イイ人”的に捉えたり、簡単に「台湾は親日的」と言ったり
日本の植民地支配をまるで良い事をして上げたかのように言ってしまう人さえ未だに居る。
ジャーナリスト出身の酒井充子監督は、日本ではあまり語られない台湾の過去(そしてそれを引きずる現在)
を知ったことで、それを他の多くの人々にも伝えたいという使命感が湧き、作品を撮ったのではないだろうか。
酒井充子監督作品からは、そんな“伝えること”への執念や
台湾への懺悔の気持ちと台湾への愛をヒシヒシと感じる。
使命感だの執念だのという言葉を使ってしまうと、堅苦しい作品みたいだけれど、そんな事はなく
所々台湾らしいユルさが感じられるユーモアも有る。
高菊花さんが弟さんと、ベートーヴェンのCDを持って、父・高一生のお墓参りにいくくだり、サイコー。
涙流して笑った。 父上が好きだったのは、<第九>ではなく<第五>だったらしい。
 
日本人のみならず、台湾の若い子たちが観ても、何かを感じられる作品だと思う。
でも、私もそうだったけれど、若い頃って、おじいさんおばあさんのこういう話に
なかなか興味が持てないものだ。
だからこそ、酒井充子監督は、生き証人たちの証言を、今のうちに記録しておきたかったのかも。
私は、本作品を観て、久し振りに侯孝賢(ホウ・シャオシエン)監督の『悲情城市』が観たくなった。
 
 
そうそう、これこれ、
  
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初日来場者プレゼントで、茶語凍頂烏龍茶いただきました~。 ありがとうございます。

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