【2016年/アメリカ/111min.】
<1: Little>フロリダ州マイアミ。“リトル”というあだ名で呼ばれる内気な少年シャロンは、いじめっ子から逃げているところを、キューバ人のフアンに助けられ、彼の恋人テレサが待つ家に連れて行かれる。最初はフアンを警戒し、口もきかなかったシャロンだが、共に過ごす時間が増すにつれ、徐々に心を開き、彼から多くの事を学ぶようになる。シャロンの情緒不安定な母親ポーラは、息子がフアンに懐いていることが、面白くなく、親切なフアンにまで八つ当たり。<2:Chiron>ティーンエイジャーになったシャロン。母のポーラは薬物依存に陥り、薬代を稼ぐため、売春。フアンはもうこの世に居なくても、テレサはずっとシャロンを優しく迎え入れ、変わらぬ交流が続いている。しかし、そんなテレサがくれるお小遣いさえ、ポーラの薬代に消えてゆく。幼い頃からの唯一の友人であるケヴィンは、今では女性関係もお盛んだが、ある晩、一緒に行ったビーチで、シャロンは彼に身をゆだねることに。翌朝、学校でいつもシャロンを標的にしている問題児テレルが、イジメの儀式として、ケヴィンにシャロンを殴るように命じる。ケヴィンはその命令を拒絶できず、シャロンを一発、二発と殴るのであった。<3:Black>ジョージア州アトランタ。少年院を出てから、故郷を離れ、この街で薬の売人としてのし上がったシャロンは、“ブラック”の名で、その筋では知られる存在になっていた。ある日、一本の電話を受ける。ケヴィンからであった。今はコックとして働いている、料理を振る舞うから是非食べに来い、と言う。シャロンは久々にマイアミへ戻り、事前の連絡なしに、ケヴィンが働くダイナーに赴き、無言で席に着く。シャロンの来店に気付いたケヴィンは、彼のあまりにも変わった現在の風貌に、やや戸惑いながらも、自慢の料理を運び、この数年に起きたことを語り、シャロンにも近況を尋ねる。そして、売人として成功したことを知り、言う、「君に限って、そうなるとは思わなかったよ」と。ギコチナイ空気が流れたまま、二人はダイナーを出て、ケヴィンの家へ向かい…。
『ラ・ラ・ランド』独走!と言われていた第89回アカデミー賞で、
その『ラ・ラ・ランド』を抑え、
作品賞を受賞した他、助演男優賞、脚色賞にも輝いた作品。

手掛けたのは、本作品が長編監督作品2本目の
バリー・ジェンキンス。

デビュー作『Medicine for Melancholy』(2008年)は日本未公開で、私は観たことナシ。
久々の新作で、バリー・ジェンキンスの名を世に知らしめた『ムーンライト』は、
タレル・アルヴィン・マクレイニーによる半自伝的戯曲、

原案者タレル・アルヴィン・マクレイニーとバリー・ジェンキンス監督が共同で脚本を執筆している。
物語は、薬物依存の母と二人で暮らし、学校ではイジメに遭っている孤独な黒人少年シャロンが、
過酷な環境下、自分の居場所を探しながら、成長していく姿を描く人間ドラマ。
有色人種、貧困、同性愛者という、差別の対象に陥り易い三重苦を背負って生きる主人公・シャロンが、
自分のアイデンティティを模索する姿を、少年期、青年期、大人に分け、3部構成で追っていくのが特徴的。
バリー・ジェンキンス監督は、アジア映画などもよく観ているらしく、
本作品を3部構成にしたのは、彼のお気に入り作品の一つ、
侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の『百年恋歌』(2005年)からいただいたアイディアだと語っている。
『百年恋歌』は、張震(チャン・チェン)&舒淇(スー・チー)という二人の役者が、
清代、60年代、現代という3ツの時代の男女を演じ分けている作品で、
3人の俳優が、シャロンという一人の主人公の人生における3ツの時代を演じている
この『ムーンライト』とはかなり質が異なる。
2作品の共通点は、単純に“3部構成”という事くらいだが、
『百年恋歌』は私も大好きな作品なので、このインタヴュ記事を読み、アカデミー賞にまったく興味の無い私まで、
バリー・ジェンキンス監督と『ムーンライト』に、俄然興味が湧いてきた。
バリー・ジェンキンス監督は、他にも、好きな監督として、フランスのクレール・ドニの名を出したり、
影響を受けた作品として、王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の『ブエノスアイレス』(1997年)などを挙げている。
以前のアメリカなら、ジム・ジャームッシュとかソフィア・コッポラとか、
非アメリカ映画をマニアックに観ていそうな監督が結構居て、
実際、その手の監督作品からは、ヨーロッパ的、アジア的ニオイや、インディーズの雰囲気が感じられ、
かなり私好みだったのだが、最近はそういう監督があまり出て来ず、
在り来たりなハリウッドの王道が目立つようになってしまったと思っていた。
そうしたら、バリー・ジェンキンス監督の台頭よ。
好きな監督や影響を受けた作品を聞いただけでも、自分の好みに近いと、期待が湧いてしまう。
(もっとも、好きな作品が同じでも、作る作品がまったく私の好みとはズレている
行定勲監督などの例もあるので、“インプット=アウトプット”とは一概に言えない。)
ちなみに、バリー・ジェンキンス監督が言うには、
『ムーンライト』において、クレール・ドニ監督からの影響は間接的なもので、
『ブエノスアイレス』に関しては、もっと直接的にオマージュを捧げている、…とのこと。
『ブエノスアイレス』は、大・大・大好きな作品なので、
『ムーンライト』を鑑賞するにあたり、そのオマージュとやらは、とても気になった。
御本人が、“直接的”と言っているのだから、私にも分かるだろうと、それを見付ける気マンマン。
そうしたら、中盤で、早速発見。
主人公・シャロンが、
“アメリカ版ゆりかもめ”のような電車に乗るシーンが、

『ブエノスアイレス』で、張震(チャン・チェン)の実家を訪ねるため、台北に渡った梁朝偉(トニー・レオン)が
MRT台北捷運に乗っているラストシーンと酷似。
最初の方でオマージュが出てきてしまったから、あとはもう無いワと思っていたら、
その後、『ブエノスアイレス』で印象的に使われている
<Cucurrucucú Paloma>が流れるシーンも。

他にも、深読みしようと思えば、
『ブエノスアイレス』や、その他の王家衛監督作品を彷彿させるカットがわんさか。
二人向き合いダイナーで食事をするシーンとか、ハイウェイを車で走るシーンとか
(私は車に詳しくないが、燃費が悪そうなレトロでゴツイ大型車であることも共通)、
懐かしソングが流れるジュークボックスとか…。
主人公のシャロンを演じる3人は、“リトル”と呼ばれる子供時代にアレックス・ヒルバート、
ティーンエイジャーの頃はアシュトン・サンダース、
そして“ブラック”と呼ばれる大人になった彼はトレヴァンテ・ローズ。
元々私が知っていた俳優は一人も居ないのだが、皆さん素晴らしい!
甲乙つけられるものではないけれど、強いて言うなら、
子供のアレックス・ヒルバートと大人のトレヴァンテ・ローズが、取り分け印象に残っている。
アレックス・ヒルバート扮する“リトル”ことシャロンは、本当に細くて小さくて、
言葉を発することなく、いつも下を向いて、しおらしいのナンのって。
ただ佇んでいるだけで、スクリーンから、彼の孤独感がビシバシ伝わってくる。
ティーンになっても相変わらず弱々しく、問題児テレルとその仲間の格好の標的で、イジメられまくり。
大人のシャロンは、当然その延長線上の人物、
つまり、見るからに弱々しいホッソリした体形の、物静かな男性を想像するが、
第3部に実際に登場した大人のシャロンが、まったくの別人だったので、
目を疑った。

エスパー伊東がマイク・タイソンに化けたくらい別物!
自分を強く、大きく見せたかったのだろう。
鍛えぬいたボディは、元の3倍くらいになり、眼光鋭く、口を開けばギラギラに光る総金歯!ひえぇぇーーっ…!
耳に付けた大きなダイヤのピアスといい、頭にピッタピタに巻いた黒い布といい…
装いはまるでフアンのコピー。
幼い頃父親代わりだったフアンが、シャロンにとってのあるべき“大人像”で、
無意識の内に見た目までフアンに近付いていったのかもね。
ちなみに、よく黒人の男性がしている総金歯、
あれ、健康な歯を削って本当に金を被せているものだと、ずっと思い込んでいたが、
実は、マウスピースのように、簡単にパカッと外せる物であると、この映画で見て、初めて知った。
シャロンもお食事の時にパカッと外したら、下には白く健康な歯がきちんと残っていた。
結構邪魔な物で、食事には不便?“お洒落は我慢”なのですね。
金歯の裝脱着システムが分かり、えらく感動した。
他の出演者も簡単に見ておくと、シャロンの面倒を見るフアンにマハーシャラ・アリ、
フアンの恋人テレサにジャネール・モネイ、シャロンの母親ポーラにナオミ・ハリス、
フアンの友人ケヴィン(大人)にアンドレ・ホーランド等々。
こちらも皆々サマも素晴らしいのだが、特に好きなのが、
本作品での演技が認められ、アカデミー助演男優賞を受賞したマハーシャラ・アリ扮するフアン。
掃き溜めのような街で、しょうもない母親のもと、愛も安心感もなく暮らすシャロンを、
広い心で見守り、人生を教えてくれる大人の男性。
孤独な子供にとって、安らげる“逃げ場”が有ることは、救いになるし、
仮にシャロンほど家庭環境が酷くなくても、尊敬できる親以外の大人との出会いは、
子供の視野を広くしてくれるものだ。
幼いシャロンが、自分の性について、まだ自分自身でも理解しておらず、
同級生たちから罵られた“faggot(オカマ)”の意味も分からず、
フアンに小声でポツリと「“faggot”って何?」と尋ねた時も、
「ゲイの人たちの気分を悪くする言葉だよ。お前はもしかしてゲイかも知れない。
でも、他人に“faggot”なんて呼ばせちゃ駄目だ」と教えるのはフアン。
本当の父親のように、水泳を教えてくれることもあれば、
自分の人生は自分で決めるんだ、人に決めさせるなと、強くも優しくシャロンに誇りをもつこと教えてくれる人。
…かと言って、このフアンは聖人君主とは描かれていない。
彼は薬の売人で、シャロンの母親にも薬を売っているのだ。
我々映画の観衆は、そんなフアンが死んだことを、サラッと台詞だけで知らせれる。
彼が死ぬシーンは無いし、死因が説明されることも無い。“いつの間にか居なくなっていた”という感じなので、
一体何が有ったのか?!と余計に想像を掻き立てられる。
私がこの作品を観ようとしたキッカケは、『ブエノスアイレス』等へのオマージュを知ったことで、
実際、過去の名作を彷彿させる数々のシーンにワクワクもさせられたのだけれど、
だからと言って、本作品は“オマージュのパッチワーク”などには終始せず、
きちんとオリジナルの作品として、魅力的に成立している。
美しい映像は、光や色への並々ならぬコダワリが感じられ、引き込まれるし、
一人の孤独な少年が成長する物語は、肌の色などに関係なく、普遍的に思える部分も多く、切なくなる。
同性愛者の物語でもあるが、直接的な性描写はほとんど無い。
大人になり、すっかり変わり果てたシャロンが、久し振りに再会した初体験のお相手・ケヴィンに、
あの体験が最初で最後であったという意外な事実を打ち明けるシーンでは、
強面の売人になっても、シャロンはシャロンのままだったと分かり、グッと来た。
そして、
月光を浴び、黒い肌が艶やかに青く光る“リトル”シャロンのラストシーン…。

反則!出来過ぎっ!それまでの全てが集約されているかのようなラストであった。
『ラ・ラ・ランド』の世間での高評価に共感できない私は、
米アカデミー賞は、やはり自分向けの映画賞ではない!と再認識したが、
『ムーンライト』を観て、アカデミー賞も捨てたモンじゃないと思えてきた。
『ラ・ラ・ランド』エマ・ストーンの主演女優賞受賞には、疑問ばかりが湧いても、
『ムーンライト』マハーシャラ・アリの助演男優賞受賞は大納得だし、作品賞も然り。
バリー・ジェンキンス監督は、この先も発表する作品に注目していきたい監督さんになりました。