2017年初秋の北京旅行備忘録、ダラダラと更新続いております。
今回は、久し振りに訪れた颐和园(頤和園)について簡単に。
当初、うちの母が見学を希望していたのは、西太后の陵墓もある世界遺産・東陵。
母が「テレビで場所は北京だと説明していた」と言うし、私自身行きたいと思ったので、ちょっと調べてみたら、
確かに北京から行けないこともないけれど、正確な場所は、河北省遵化で、
北京からの所要時間は車で片道約3時間(…ってことは、往復6時間は車中)。
しかも、現地に到着しても、敷地は広大、見所も沢山あるため、全てを見学するには一日では不充分。
わざわざ遠出したところで、せっかくの世界遺産を、
帰りの時間を気にしながら、滞在時間数時間で済ますのでは、あまりにも勿体ない。
東陵は、近くに宿泊するホテルをとって見学すべき場所で、北京から日帰りで行く場所ではない!と判断。
じゃぁ、どこへ行きましょう…?と考え、西太后繋がりで頤和園に決定。
頤和園は、母は初めて。私は以前、友人Mと一度行って、それっきり。
すでに記憶はおぼろげで、“あの時は、短時間で重要な見学ポイントを全て制覇”と思い込んでいたのだが、
今回再訪したら、頤和園は私のいい加減な記憶を遥かに越える広さで、とてもとても回り切れず、
結局、滞在時間約4時間で、ほんの数ヶ所の見学ポイントだけを観るに留まった…。
こんなに広かったでしたっけ、頤和園…。
効率よく廻るために、園内の道順を熟知しているガイドを雇っても良かったかも知れない、…と今更思っている。
当日、今にも泣き出しそうな曇り空でありながら、降らないでいてくれたのは、幸いであった。
園内では、かなり歩くことになるし、段数の多い階段もあるので、雨降りだと、見学は大変だと思います。
(お池の周りなどを、ただお散歩するだけと割り切るなら、雨の日もまた情緒があるかと。)
★ 頤和園の歴史
そもそも頤和園とは…?
日本では“西太后の夏の離宮”(英語の呼称も“Summer Palace”)、
“贅沢者の西太后が頤和園造営に大金を注ぎ込んだため、国が傾いた”などと紹介されることが多いように、
確かに、“西太后”こと慈禧太后(1835-1908)との御縁が深い頤和園。
しかし、実のところ、その起源は、もっと前の乾隆帝(1711-1799)の時代に遡る。
(さらに正確に言うなら、元の時代にまで遡る。)
清・乾隆15年(1750)、乾隆帝が、母・崇慶皇太后(1693-1777)還暦祝いの際、都の水系整備を口実に、
西湖掘削、西山、大泉山、寿安山の造営、高水湖、養水湖を貯水池に等々と命じ、
乾隆29年(1764)に完成した清漪園(せいいえん)が頤和園の前身。
この大工事の時に引かれた“頤和園初の設計図”は、
イタリア人宮廷画家、“郎世寧”ことジュゼッペ・カスティリオーネ(1688-1766)の手による。
ちなみに、乾隆帝の生母・崇慶皇太后は…
『宮廷の諍い女~後宮甄嬛傳』で孫儷(スン・リー)が演じた甄嬛であります。
そんな清漪園は、清・咸豊10年(1860)、第二次アヘン戦争で、英仏軍により破壊。
清・光緒9~20年(1884-1895)、西太后晩年の隠居の場として、光緒帝(1871-1908)の命で再建。
この時の改称が、現在我々に馴染みのある“頤和園”。
ところが、光緒26年(1900)、今度は8ヶ国連合により、またまた破壊。
光緒28年(1902)の再建で、ほぼ現在の形に。
中華民国成立後の1914年、愛新覺羅溥儀(1906-1967)の私有財産として一般公開されるも、
1928年には、南京国民政府内政部に接収。
1961年、全国重点保護単位に指定され、1998年、ユネスコ世界文化遺産に登録。
★ 頤和園全体像
頤和園の面積は300.8ヘクタール。
内、水面が3/4を占める。
面積を聞いてもピンと来ないので、ちょっと調べたところ、
日本だと、水戸の偕楽園が大体同じ300ヘクタールで、東京ドーム64個分に相当するそうだ。
見学ポイントは主に、昆明湖の北側に集中。
大きく分け、“宮殿区”、“湖岸区”、“万寿山区”、“後山・後湖区”、“昆明湖区”の5ツのエリアから成る。
また、機能面から、“政治活動区”、“生活区”、“遊覧区”の3ツのエリアに分ける場合もあるみたい。
出入り口は計6ヶ所あるが、正門である东宫门(東宮門)から入るのが、見学には適しているとよく言われる。
問題は、その東宮門の近くに地下鉄駅が無いこと。
地下鉄駅が有るのは、頤和園最北の北宫门(北宮門)。
この門の近くには、地下鉄4号線の、その名もズバリ、北宫门(北宮門)駅あり。
この地下鉄駅問題は、天壇公園も然り。
天壇公園も、見学コースの入り口に適している南門近くには駅が無く、出口となる東門近くには駅があり。
“行きはよいよい 帰りは怖い”とは逆で、帰りは楽ちんなのだけれど、
“行きも帰りもよいよい”になるよう、駅を2ツ作って欲しいわ…。
今回、私は、母が一緒だったので、ホテルからタクシーで一気に東宮門へ行ったが、
公共交通を利用する場合はバスか、
もしくは地下鉄4号線・北宮門で下車し、頤和園の壁沿いに、東宮門までぐるっと徒歩で南下すれば良い。
所要は恐らく15分程度だと想像する。
以下、見学した場所をおさらい。
★ 東宮門
混雑を避けるため、平日に行ったのに、予想に反し、結構な混雑…。
(いえ、これはマシな方で、週末はもっと込んでいるのだろうか…?)
メゲずに、まずはチケット購入。
入園するだけなら30元(冬季20元)。
そのチケットだと、園内の何ヶ所かの見学ポイントで、改めて5元から20元のチケットを買う必要あり。
全て込み込みの共通券なら60元(冬季50元)。
私は共通券の方を購入。
チケットを購入したら、頤和園の正門である东宫门(東宮門)からいざ入園。
門に掲げられている“頤和園”の扁額は、
頤和園と浅からぬ因縁がある清朝第11代皇帝・光緒帝(1871-1908)の御筆。
ちなみに、光緒帝は、田中裕子が西太后を演じたドラマ『蒼穹の昴~蒼穹之昴』では…
張博(チャン・ボー)が演じている。
現在放送中の『琅琊榜(ろうやぼう)<弐> 風雲来る長林軍~琅琊榜之風起長林』では、
禁軍の荀飛盞大統領役がカッコイイ張博だけれど、
『蒼穹の昴』では、田中裕子に抑え付けられ、覇気ないです(笑)。
★ 仁寿殿
東宮門を入り、すぐ目の前に現れるのが、仁寿门(仁壽門)という小ぶりの門。
ここをくぐり、中の“仁寿殿(仁壽殿)”を見学。
乾隆帝が建てた清漪園時代には“勤政殿”と呼ばれた、皇帝が政治を執り行う正殿で、
光緒年間の再建時、<論語>の中の“仁者寿”にちなみ、“仁寿殿”に改称。
その時代、ここは、慈禧太后(西太后)と光緒帝が聴政を行う場所で、外国使節との接見などにも使用。
建物は、東向きに立てられた入母屋造り。
前庭中央には、“寿星石(壽星石)”。
光緒12年(1886)、現在では北京大学の構内になっている墨尔根园(墨爾根園)から運んできた奇石。
姿形が寿星(=寿老人)のようであることから、“寿星石”と呼ばれる。
殿内は…
後方に、226の異なる書体で“寿”を字を記した屏風。
★ 徳和園
仁寿殿の北側に隣接しているのが、“和园(和園)”というエリア。
この徳和園の東側は、現在頤和園から隔離され、頤和安縵酒店(アマン・アット・サマーパレス)になっている。
そう、あのアマンホテルである。
その頤和安縵酒店については、また後日別の項で。
徳和園の中心的建造物が(↓)こちら。
光緒17年(1891)創建の“大戏楼(大戲樓)”。
高さ22.73メートル、“福”“禄”“寿”を意味する3層の舞台から成る中国最大の戲楼で、
避暑山莊の清音閣、紫禁城の暢音閣と並ぶ“清代三大戯台”の一つに挙げられる。
大戯楼での観劇を楽しんだのが慈禧太后(西太后)。
大戯楼の真正面には、西太后専門の観劇用建物、“颐乐殿(頤樂殿)”が建つ。
殿内中央には、西太后のための観劇用ロイヤルシート、玉座。
頤楽殿の裏に回ってみると、(↓)こんな物が。
これは“火道口”。
冬場、殿内を暖めるため、地下に作られた火の焚き付け口。
つまり、オンドルのような設備で暖房完備のシアターで、西太后は、冬でも観劇を楽しめたわけ。
清代、宮廷内では、暖をとるための木炭にも細心の注意が払われており、
高品質の木材で専用に作らた木炭は、長時間燃焼し、火の勢いが強く、しかも煙があまり出なかったのだと。
西太后以外の人の観劇は(↓)こちらで。
大戯楼をはさみ、東西に対照的に建つ“看戏廊(看戲廊)”。
西太后から観劇を下賜された王公大臣らのための、言わば“ボックスシート”で、計20間ある。
一般的に、ひと間は2~3人から4~5人で使用。
着席順などは、王、貝勒、貝子、公、満漢一品大臣という身分に従い決められる。
こういう雰囲気で中国茶が楽しめるカフェがあったら、私、通っちゃいます。
★ 玉瀾堂
仁寿殿のすぐ後方(西側)、湖畔に面したこちらに移動。
ここは乾隆15年(1750)創建の“玉澜堂(玉瀾堂)”。
門をくぐるとすぐ出てくるのは、玉瀾堂の正殿。
元は、四方に通り抜けられる建物だったが、咸豊10年(1860)、英仏連合軍により破壊。
光緒12年(1886)に再建され、光緒帝の寝所として利用。
その後、光緒帝は、康有為、梁啓超らによる変法運動に関心をもち、
西太后の傀儡から脱し、自らの親政と体制の改革を宣言。
光緒24年(1898)9月16日には、軍を掌握していた袁世凱と、この場所で接見し、
変法運動への協力を要請。
ところが、同調していたかのように見えた袁世凱が、変法派の動きを、西太后にリーク。
西太后は先手を打って、敵方の勢力を封じ込めるクーデター、いわゆる“戊戌の政変”を起こし、
敗北した光緒帝が監禁されたのもまた、ここ、玉瀾堂である。
★ 宜芸館
玉瀾堂の北側へ移動。
この時は、門瓦の修復作業中だった。
門の内側に建つのは“宜芸馆(宜芸館)”。
“宜芸”とは“蔵書”を意味する言葉らしい。
そんな訳で、乾隆15年(1750)に創建されたここは、乾隆帝の書庫として使用。
玉瀾堂と同じように、咸豊10年(1860)、英仏連合軍により破壊され、光緒12年(1886)に再建、
日本では“隆裕”の名で知られる、光緒帝の皇后の園内の寝所となる。
ちなみに、“隆裕”は、西太后が病没し、溥儀が宣統帝として即位した際に贈られた徽号で、
元々の姓は葉赫那拉(エホナラ)氏といい、西太后の姪っ子である。
★ 水木自親
宜芸館を出て、昆明湖に沿ってブラブラ。
あいにくの曇り空だが、湖面に咲く蓮のお花が綺麗。
しばらくして目に飛び込んでくるのが、西太后の寝所として使われた乐寿堂(樂壽堂)の門外で、
昆明湖北岸船着き場の真ん前に建つ…
“水木自亲(水木自親)”という小さな建物。
“皇家電話專線展”の額が掛かっているように、この中では、
中国史上初のロイヤルファミリー御用ホットラインの展示が見られる。
電話が中国に入ってきたのは1900年頃。
南京に、中国初の市内電話が誕生したものの、人々はそれを良い物、便利な物とは受け止めず、
むしろ、気味の悪い物と捉えられ、普及に至らず。
その頃、八ヶ国連合軍が迫り、西安へ落ち延びた西太后は、
光緒28年(1902)、ついに北京へ帰還となった道中、「西洋には色々とスゴイ物がある」と一人黙々と思考。
その“スゴイ物”の一つが電話で、北京に到着すると直ちに電話局の設立を命令。
光緒34年(1908)7月、頤和園の水木自親と中南海を結ぶ電話が開設。
園内の設置場所を水木自親にしたのは、
西太后が自身の寝所・楽寿堂に船で乗り付ける埠頭があり、便利な場所だから。
もう一方の中南海は、当時光緒帝を軟禁していた場所。
つまり、この電話は、西太后と光緒帝を結ぶホットライン。…という以上に、光緒帝監視用。
しかし、それから約3ヶ月後の11月、光緒帝、西太后が相次いで逝去したため、
この電話もあっという間にお役目終了。
2005年、通信会社・北京聯通(チャイナ・ユニコム)が頤和園と共同で、
“皇家電話專線展”という展示を一般に向け公開。
ここ、“展示室”と考えると小さいけれど、“電話ボックス”と考えると大きいですね。
清朝末期最高権力者の通信手段に興味のある方は、頤和園見学の際、お立ち寄り下さい。
ちなみに、展示されている電話は、ドイツのシーメンス社製であった。
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◆◇◆ 颐和园 Summer Palace ◆◇◆
北京市 海淀区 新建宫门路 19号

各施設開放時間 8:30~17:00(夏季)/ 9:00~16:00(冬季)

颐和园联票(園内共通券) 60元(夏季)/50元(冬季)

但し、頤和園の正門・东宫门(東宮門)附近には地下鉄駅ナシ。