【2015年/ハンガリー/107min.】
1944年10月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。サウルは、ここで、特殊部隊・ゾンダーコマンドの一員に選出され、死体処理の仕事などに従事させらているハンガリー系ユダヤ人の男。ある日、遺体の山の中に、死に損ない、辛うじて命を繫ぎとめている息子の姿を見付けるが、その息子は、サウルの目の前で、医師の手により息の根を止められてしまう。このままでは、死んだ息子は解剖され、挙句火葬されてしまう…。せめて息子をきちんと埋葬し、弔ってやりたいと考えたサウルは、収容所内で必死にラビを捜し始める。一方、ゾンダーコマンドの仲間たちの間では、収容所を爆破し、脱走しようという蜂起の計画が着々と進められ…。
2015年、第68回カンヌ国際映画祭で
グランプリ受賞、

2016年2月末に開催の第88回アカデミー賞でも、外国語映画賞にノミネートされ、
受賞の最有力候補と目されているハンガリー映画。
そんな話題作にもかかわらず、手掛けた
ネメシュ・ラースロー監督の名は、聞いた覚えが無い。

ネメシュ・ラースロー監督は、1977年ハンガリーのブダペストに生まれ、フランス・パリで育ったユダヤ系。
父親がイェレシュ・アンドラーシュ監督ということもあり、子供の頃から映画製作に興味をもち、
2003年ハンガリーに戻り、タル・ベーラ監督のもと助監督を経験し、その後発表した本作品が、
なんと長編監督デビュー作なのだと。
本作品の主人公は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で、特殊部隊・ゾンダーコマンドの一員として、
同胞ユダヤ人の死体処理などを行っているハンガリー系ユダヤ人の中年男性・サウル。
物語は、ある日、息子らしき少年の遺体を発見し、なんとか手厚く弔ってやりたいと突き動かされたサウルが、
極限状態の中、人間の尊厳を守るため、奔走する2日間を描いた壮絶なヒューマン・ドラマ。
本作品のキーワードは“ゾンダーコマンド Sonderkommando”。
“特殊部隊”を意味するドイツ語で、戦時下のナチスには様々なゾンダーコマンドが存在したようだが、
本作品で焦点を当てているのは、ユダヤ人強制収容所で選抜されたユダヤ人によるゾンダーコマンド。
この一員に選ばれると、同胞であるユダヤ人をガス室に送ったり、
死体を処理するといった仕事に従事させられる。
“ナチスのユダヤ人大量虐殺”と聞くと、
ユダヤ人を無慈悲にガンガン殺しているドイツ人を漠然と想像してしまいがちだけれど、
実際には、ナチスは、そういうヨゴレ仕事には直接手を染めず、
ユダヤ人に同胞であるユダヤ人を始末させていた、というわけ。

このゾンダーコマンドに選ばれたユダヤ人には、収容所内で多少の自由も許されていたようだが、
なにぶん彼らは“歴史の生き証人”。
数ヶ月間働いた後は、他のユダヤ人同様、やはり抹消されるという末路が待っている。
中には、悲惨な事実をちょっとでも残そうと、日記などに書き記し、こっそり隠していた人も居て、
後にそれらを一冊にまとめた
<The Scrolls of Auschwitz>という本も出版されている。

30代後半の完全な戦後世代であるネメシュ・ラースロー監督自身もまた、
この本に触発され、この本をベースに本作品を撮ったらしい。
つまり、本作品は、ゾンダーコマンドのメンバーだったユダヤ人の証言が元になっているという事。
1944年10月7日と8日、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で
密かに入手した火薬を使い、ゾンダーコマンドのメンバーたちが蜂起したのも、歴史上の事実。
そこに至る“1944年”という年も鍵。
その年の3月、ナチスに占領された(…と言うか、むしろ歓迎して受け入れた)ハンガリーは、
積極的に自国のユダヤ人狩りを開始。
短期間にあまりにも大量のユダヤ人をアウシュヴィッツへ送り込んだため、
ガス室をフル稼働させても追いつかないほど、収容所はユダヤ人で溢れ、パンク状態だったという。
内容が内容なので、この映画は、目を覆いたくなるような地獄絵図の連続かと思いきや、
実際には、収容所の様子はほとんど映し出されていない。

映画が幕を上げて早々、「まずはシャワーを浴びましょう」、「その後、それぞれに仕事を割り当てます」と騙して
大勢のユダヤ人をガス室に誘導するシーンが有る。
ガス室の扉が閉まり、数秒の静寂の後、我々観衆の耳に入って来るのは、悲痛な叫び声や壁を叩く音…。
映像はボケボケで、惨状を目にすることはできないが、だからこそ音が想像を掻き立て、
余計に背筋がゾッとする。
この映画、最近しばしば有る“爆音上映”で観たら、恐怖心が増幅すること間違い無し。
また、カメラが主人公・サウルを近距離で捉え続ける映像は、
まるで我々観衆をゲームの中に取り込み、サウルの目線を通し、
彼の体験を追体験させるヴァーチャル・リアリティ効果も生み出しているように感じる。
出演者にもちょっと触れておくと、主人公のサウルに扮しているのはルーリグ・ゲーザ。
1967年ハンガリー・ブダペスト生まれ、ポーランドの大学に在学中アウシュヴィッツを訪れ、
ブルックリンでハシディズムを学ぼうと決意し、ほどなくしてホロコーストをテーマにした詩集を発表、
2000年からはニューヨークに暮らす詩人なのだと。
俳優としては、この『サウルの息子』の主人公を演じ、有名になったけれど、
過去にも多少の演技経験は有ったらしい。
詩人や画家といった芸術家には、独特な雰囲気と存在感があり、演技経験が有ろうと無かろうと、
スクリーンの中で絵になる。
さらに、このルーリグ・ゲーザ自身が厳格なハシディック系ユダヤ教徒であることが関係しているかは不明だが、
作り物とは思えない悲壮感を醸していて、見ていて息苦しくなった。
主な舞台は強制収容所だけなのに、その強制収容所の細部をほとんど映し出すことなく、
ホロコーストの物語を成立させている珍しい作品。
斬新でありながら奇を衒った印象は無く、むしろ古いヨーロッパ映画のような落ち着いた印象。
ドラマティックな展開でハラハラどきどきの連続という感じではなく、
背後から重く恐ろしい物がゆっくりズシンズシンと迫ってくるような息苦しい感覚に囚われた。
そして、“サウルの息子”は一体何者だったのか…?
人間の最低限の尊厳を守りたいと願うサウルを突き動かすために必要な“動機”の具現化、
もしくは、極限状態で見た“自分が生存するための希望”のようにも思えた。
この作品を御覧になった他の皆さまは、どう捉えたのでしょう。
もしかして、サウルが言ったように、本当に“妻との間の子ではないけれど、サウルの息子”だったの?
あと、本作品を観ながらやはり考えてしまったのは、
ナチスとユダヤに限らず、日本とアジア諸国にも当て嵌まる戦後の問題。
自身は戦争を知らない世代でも、祖父母を強制収容所で亡くしているネメシュ・ラースロー監督は、
初めて発表する長編作品にこのテーマを選び、「負の遺産を忘れてはならない」、
「歴史を学び見つめ直すことで未来に向かって行ける」と語っている。
近年、日本人が過剰に反応する言葉と同じである。
毎度の事だけれど、もしアジア系の監督が、過去に日本から受けた被害をテーマに映画を撮り、
同じような発言をした場合、『サウルの息子』で魂を揺さぶられた日本人の観衆は、
一体どう反応するのだろう?と考えてしまう。
他人事か当事者かで、人は寛容にも狭量にもなってしまう。
当然ドイツにもホロコーストを否定する人が居るし、
ヨーロッパ全体でも近年右傾化が進んでいるようには見受けるが、
ハンガリーと同じように、ナチスに加担した負の過去が
多かれ少なかれトラウマになっているであろうフランスの映画祭が、本作品にグランプリを与えたのには、
ちょっとした良心と寛容が感じられる。
ちなみに、カンヌ国際映画祭の最高賞はグランプリではなく、パルム・ドール。
グランプリは、審査員特別賞のような賞。
本作品がグランプリを受賞した第68回カンヌ国際映画祭では、
ジャック・オディアール監督作品『ディーパンの闘い』がパルム・ドールを獲得。
こちらは、2016年2月12日、日本公開。
ハンガリー映画は、私にとってあまり馴染みが無いけれど、
『リザとキツネと恋する死者たち』に続き本作品と、たまたまこのひと月ほどの間に2本観ることとなった。
2本でテイストは異なれど、私の中で確実に映画界でのハンガリーの存在感は増した。