【2016年/アメリカ・台湾・メキシコ・イギリス・イタリア・日本/162min.】
1633年、長崎・雲仙。役人たちから柄杓で煮えたぎる温泉の湯を掛けられ、悶え苦しむ隠れキリシタンたちを前に、為す術もなく、ただただ悲嘆に暮れるポルトガル出身のイエズス会宣教師・フェレイラ。1637年、マカオ。二人の若き宣教師、ロドリゴとガルぺは、ヴァリニャーノ神父から、師と仰ぐフェレイラが日本で棄教し、そのまま行方知れずになっていると聞かされ、耳を疑う。なんとかフェレイラを探し出し、救いたい一心で、危険を覚悟で日本行きを決意。まずは、人づてに、キチジローという日本人青年と接触。キチジローは、品性のかけらも感じられない吞んだくれだが、マカオでたった一人の日本人であるため、彼以外に頼れる者はいない。そんなキチジローの案内で、海を渡り、到着したのは、長崎のトモギという寒村。そこで、“じいさま”と呼ばれる長老をはじめ、密かにキリスト教を信仰する村人たちから、温かく迎え入れられるロドリゴとガルぺ。昼間は人目を忍び、小さなあばら家に籠り、暗くなると村人たちに教えを説くという日々を繰り返すが、長崎奉行の捜査は、この地でも徐々に厳しさを増し…。

私にとってのマーティン・スコセッシ監督作品最高峰は、
『ミーン・ストリート』(1973年)と『タクシードライバー』(1976年)であり、
それ以降の作品には、さほどビビッと来ることなく、
実のところ、“何がナンでも新作をチェックしておきたい監督”ではなくなってしまった。
それでも、この新作を是非観たい!と思ったのは、これが
日本と深く関わっているから。

本作品の原作は、
遠藤周作、1966年の小説<沈黙>。

すでに篠田正浩監督が『沈黙 SILENCE』(1971年)のタイトルで映画化済み。
…が、実は、私、そもそも原作小説を未読だし、篠田正浩監督版の『沈黙』も観ていない。
40年以上の時を経て、ハリウッドの巨匠までもが、2度目の映画化をするなんて、
余程素晴らしい小説なのだろうか。
遠藤周作というと、親しみ易いネスカフェの“狐狸庵先生”のイメージが記憶に未だ強く刻まれている反面、
敬虔なキリスト教徒であったことや、自らの信仰が作品に反映されている印象もあって、
まったくの無宗教である私は、取り分け<沈黙>のような小説には、なかなか手が出なかったのだ。
そんな訳で、内容をほとんど知らないまま映画鑑賞。
物語は、キリシタンの弾圧が激しさを増す江戸時代初期、
捕らえられ、棄教し、行方不明になったと噂される高名なイエズス会士・フェレイラを探し出すため、
キチジローという日本人青年の手引きで、マカオから長崎へ潜入した弟子のロドリゴとガルぺが、
現地の隠れキリシタンたちから歓迎され、厳しい状況下でも、自分たちが信じる宗教を通し、絆を深めていくが、
キチジローの裏切りで捕らえられてしまった上、罪無き隠れキリシタンたちをも巻き込んでしまい、
苦悩する姿を描きながら、信仰の意味を問う歴史ヒューマン・ドラマ。
“隠れキリシタン”や“踏み絵”といった言葉は、小学校の歴史の教科書にも必ず出てくるし、
その背景についても、ある程度知っているつもりでいたが、
映像にされた物で改めて見ると、キリシタンの弾圧は、漠然と想像していたものよりずっと激烈だし、
知らなかった事もいっぱい。
そもそも、主人公の若き神父、セバスチャン・ロドリゴが、日本へ渡る動機は、
彼の師である高名なイエズス会士を探し出し、救うためなのだが、
その当のイエズス会士クリストヴァン・フェレイラって、実在の人物だったのですね。
私、それさえ知らなかったワ。
クリストヴァン・フェレイラ(1580-1650)が、ポルトガル出身のイエズス会士で、
布教のため渡った日本で捕らえられ、拷問の末、棄教し、日本名・沢野忠庵を名乗るようになり、
日本人の妻を娶り、キリスト教を批判する書<顕疑録>を記すなど、キリシタン弾圧に協力し、
日本で没したという話は、全て史実。
うわぁぁぁー、人生波乱万丈…。
江戸時代の日本に、どう見ても西洋的なお顔で、“沢野忠庵”を名乗るポルトガル人が暮らしていたなんて、
それだけでも不思議。
つまり、この物語は、フェレイラの数奇な生涯から着想を得て書かれたフィクションなのか。
フィクションであっても、根底には史実が絡んでいるから、嘘っぽくなく骨太。
そうそう、作中、キリシタンを取り締まる幕府の大目付、悪役として登場する井上筑後守も、
実際に存在した井上政重(1585-1661)がモデルなのだとか。
実際の井上政重は、元キリシタンであったと言い伝えられ、小説<沈黙>でも元キリシタンという設定らしい。
映画では、敢えてそのような説明はされていないが、井上を元キリシタンと考え、彼が発する言葉を聞くと、
それらの中に、ただの悪人とは片付けられない複雑な思いが感じられてくる。
出演は、まず“西洋の部”を見ておくと、日本で消息を絶ったクリストヴァン・フェレイラにリーアム・ニーソン、
フェレイラを探すため日本へ渡る彼の弟子、セバスチャン・ロドリゴにアンドリュー・ガーフィールド、
フランシス・ガルぺにアダム・ドライヴァー。
本作品の主演男優は、ロドリゴを演じるアンドリュー・ガーフィールドであるが、
あとの二人も、クセの強い個性派をもってきて、魅力的なキャスティング。
『BOY A』(2007年)で、新たなスタアの出現!と私に強く印象付けたアンドリュー・ガーフィールドは、
その後、着実にキャリアを積み、本作品でも、素晴らしい演技を披露。
若き神父の苦悩は、見ているこちら側がヒリヒリしてしまうほど痛ましい。
が、安定の演技もさることながら、
あのアンドリュー・ガーフィールドの口から「じいさま」だの「井上サマ」だのといった日本語が発せられたり、
あのアンドリュー・ガーフィールドが、日本の貧しい農民のような“ほっかむり”姿で登場することに、
新鮮な感動をおぼえた。
“ほっかむり”は、今やハリウッドスタアのアンドリュー・ガーフィールドが被ったところで、
やはり、あくまでも“ほっかむり”であり、「きゃー、素敵♪」ってわけにはいきませんね。![]()

主な舞台が日本なので、日本人出演者は当然多い。
マカオで出会ったロドリゴらを日本に連れてくるキチジローに窪塚洋介、
長崎のトモギ村に暮らす隠れキリシタンの長老、“じいさま”と呼ばれるイチゾウに笈田ヨシ、
同じくトモギ村の敬虔な隠れキリシタン、モキチに塚本晋也、
キリシタンを取り締まる長崎奉行・井上筑後守にイッセー尾形、幕府の通辞に浅野忠信、
そして、女性では、“モニカ”という洗礼名を名乗る隠れキリシタンに小松菜奈。
ポスターやチラシには書かれていないけれど、
実は他にも、中村嘉葎雄、片桐はいり、伊佐山ひろ子、青木崇高、EXIL AKIRAなどなど
結構な有名人が、カメオ出演程度にバンバン出てくる(AKIRAがどこに出ていたのかは、私は気付かず…)。
逆に、ちゃんとポスターに名前が出ている加瀬亮の出演が、あまりにも呆気なかったのも、少々意外であった。
マーティン・スコセッシ監督作品なら、ギャラ無しでも現場を体験したい俳優は、きっと多いであろう。
テレビの映画宣伝などからは、そんな日本人出演者の中でも、
イッセー尾形が抜きん出ているように感じられたが、実際に映画を観たら、私は、イッセー尾形、駄目だった…。
昔ながらの典型的な“悪代官サマ”のような大袈裟な口調が、鼻に付く。
その井上サマの側近に扮する菅田俊が、これまた昭和なドラマの“悪代官サマ”もしくは“Vシネ”的表現で、
作風から浮いているように感じる。
逆に良かったのは、共に鑑賞前の期待が低かった窪塚洋介と塚本晋也。
窪塚洋介は、若い頃は勢いやノリで“時代を感じさせる雰囲気のある俳優”としてポジションを確立していたが、
そういう若さゆえの感覚は、年齢を重ねるにつれ、通用しなくなるもの。
近年、露出の機会がぐっと減り、本作品で久し振りに見たら、これまでとは違う一面を見せてくれていた。
扮しているキチジローは、無条件に好きになれるようなキャラクターではない。
踏み絵なんか踏み慣れちゃっているし(笑)、裏切りを繰り返すから、
「キリシタンは懺悔さえすれば、無制限に赦されると思っているのかーっ!」とイラっとさせられるのだけれど、
なかなか本心が読みにくい面白い役。
塚本晋也は、そう、映画監督のあの塚本晋也。
これまでも、俳優として、自作と限らず多くの作品に出演しているが、
今回演じているモキチは、取り分け印象に残った。
モキチは、キチジローと違い、信用できる男。敬虔な信者で、最後まで信念を曲げず…
十字架に張り付けられ、波に打たれる痛ましい姿は、まるで“長崎のジーザス”!
映画監督では、他にもSABUが出ていた。
SABUは、現在開催中の第67回ベルリン国際映画祭、コンペティション部門に出品された…
自身の監督最新作で、張震(チャン・チェン)主演の『Mr.Long ミスター・ロン』が超楽しみ(…余談ですが)。
ちなみに、主な舞台が長崎に設定されている本作品、
撮影は日本ではなく、台湾で行われている。

マーティン・スコセッシ監督と元々交流のあった台湾の巨匠・李安(アン・リー)監督のお薦めがあって
台湾での撮影を決めたと言われている。
台湾で撮影が行われたハリウッド映画というと、
その李安監督作品『ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日』(2012年)と、
リュック・ベッソン監督作品『LUCY/ルーシー』(2014年)があるけれど、
全編ドップリ台湾での撮影なると、この『沈黙』が初めて。
具体的には、台北の中影文化城をはじめ、陽明山、平溪、金瓜石、北投、貢寮、金山、三芝、花蓮、
あと、『ライフ・オブ・パイ』でも使われた、台中にある、多種多様の波を人工的に作れる貯水池など、
かなりあちらこちらで撮影されている。
(塚本晋也の十字架張り付け水刑シーンは、きっと『ライフ・オブ・パイ』と同じ台中の造浪池よね…?)
一例を挙げると、(↑)こちらは花蓮。
残念ながら、中影文化城の撮影では、セットの日本家屋が突然倒壊し、
50代の台湾人男性スタッフが死亡するという痛ましい事故も起きてしまっている。
通辞役で出演の浅野忠信は、撮影中、台湾の美食も楽しんだそうで、
「小籠包や牛肉麵、あとお弁当もみんな美味しかった」と発言。
しかし、主演のアンドリュー・ガーフィールドは、役作りのためダイエット中で、食には有り付けず。
それでも、それなりの台湾滞在経験あるみたい。
(↑)こちら、2015年5月に台北で行われた記者会見の画像なのだが、
アンドリュー・ガーフィールドが着ているこのグレーのコート、
なんと“台湾で一番有名な夜市”で購入した戦利品なのだと。
その頃、“スパイダーマンが夜市を散策!”と報道する台湾芸能記事を、随分目にした。
“台湾で一番有名な夜市”って、どこでしょうねー。やはり士林夜市?(洋服屋さんも多いし。)
ポルトガル人同士が英語で喋っているとか、
江戸時代に英語を解す日本人がこんなに沢山居るわけないじゃん!とか、当初納得できなかった部分も、
物語を追っている内に、気にならなくなっていった。
視覚的にも、昔のハリウッド映画のような“西洋人の手によるなんちゃってニッポン”というワザとらしさを感じず。
当時の日本を、かなり研究し尽くしたのではないだろうか。
私は、原作小説未読のため、着地点が読めず、
ロドリゴは棄教するのか?死ぬのか?日本を脱出するのか?等々色々と想像が巡り、
気付いた時には、鑑賞前には長過ぎると懸念していた2時間40分が終わっていた。
キリスト教徒をあそこまで激しく弾圧していた当時の幕府に関しては、
「そういう時代だった」と頭で分かろうとしても、現代に生きる私には、やはり理解するのが難しい。
また、命を危険に晒してまで、一つの宗教をあそこまで強く信仰するという気持ちも、
この映画を観たからといって、理解できるものではなかった。
ただ、“信仰しない自由”に置き換えれば、登場人物たちの気持ちも、少しは理解できる。
例えば、何か宗教をもつ男性と結婚するにあたり、周囲から「あなたも入信しなさい」と強く迫られたら、
その男性がどんなに素晴らしい男性でも、私は断固入信を拒絶し、結婚より“信仰しない自由”を選ぶと思う。
私の例えはやや軽いが、自分の意思を他者に曲げられてしまったり、
大切にしている物を不可抗力で奪われてしまうことは、辛いことだわよね、きっと。
あと、世界中で右傾化が進み、外国人や他民族に対し寛容でなくなりつつある今、この映画を観ると、
“自分とは異質のものとどう折り合いをつけるか”も考えさせられる。
ただ、日本が、部外者を拒絶し、自分たちだけの生活文化を守り続けてきた島国である事、
その島国根性は、4百年近く経った現代に至るまで、脈々と受け継がれており、
そう簡単に変わるものではないという事も、この映画を観て改めて感じたのでありました…。