【2017年/台湾/107min.】
道のド真ん中で相棒の赤いスズキがエンストを起こし、困惑する張以風。
電話でレッカー移動を頼むと駅へ向かい、地下鉄に乗車。
同じ頃、別の地下鉄の車中には、徐子淇と李立。
李立は、徐子淇が手に抱えている小箱が気になって仕方が無い。
箱に小さな穴が沢山開けられているのを見付け、
徐子淇に「中に入っているのは鳥でしょう?」と確信を持って何度も尋ねるが、
彼女は「後にして。後で見せてあげるから」と素っ気ない。
やがて、古亭駅に停車すると、席を立って、下車する徐子淇と李立。
ホームでスレ違う張以風とは、まだこの時は面識が無い…。
1975年生まれの女性・黃熙(ホアン・シー)の長編監督デビュー作。
プロデュースに当たったのは、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)。
原題は『強尼·凱克~Missing Johnny』。
第18回東京フィルメックスでは、『ジョニーは行方不明』の邦題で上映。
その時は、観たくても、観に行けなかった。
近年、台湾ブームに沸く日本では、台湾映画がそこそこ入って来ているけれど、
多くは、テレビの2時間ドラマのようなお気楽な物。
キラキラのアイドル映画とは思えない本作品は、
フィルメックスで逃したから、日本のスクリーンではもう観られないと、半ば諦めていた。
ところが、嬉しい意外が起き、あのフィルメックスから約一年後に正式公開。バンザイ。
邦題が、『ジョニーは行方不明』とは似ても似つかない『台北暮色』に変えられていたため、
コレがアノ映画だと気付くのに、多少の時間は要してしまったけれど、スルーしてしまわず、良かった~。
本作品は、インコと生活する女性・徐子淇、彼女の近所に住むコミュニケーション下手な少年・李立、
そして赤い車を寝床にしている青年・張以風という3人を中心に、
台北の片隅でひっそりと暮らす孤独な人々を描く群像劇。
あまり事細かに説明すると、野暮になってしまいそうな作品。
“孤独な人々”などと在り来たりの形容をしてしまったが、
登場人物たちは決して今にも死にそうなブルーな顔で生きているわけではない。
むしろ、フツー。
普通に出掛けているし、普通に喋っているし、笑顔を浮かべることだってあるし、
とにかく、普通に日々を淡々と生活している。
…でも、普通にフツーが綴られているからこそ、掴み所が無い。
李立は一体何歳なのか、徐子淇の生活の糧は何なのか、
張以風がしばしば訪ねる家の人々とはどういう関係なのか…、等々、小さな「?」がいっぱい。
作品を観進めていく内に、バラバラだった3人が、周囲の人々をも含め、徐々に繋がっていき、
さらに個々の背景も紐解かれてゆく。
すると、当初私の中に湧いた疑問の数々も、なるほど、そうだったのかと納得できてくるのだけれど、
全てがクリアになる訳ではなく、60%程度に留めているので、余計に想像を掻き立てる。
フィルメックスで使われていた邦題『ジョニーは行方不明』の“ジョニー(強尼 Johnny)”は、
最初から最後まで未知の人物。
ある時から徐子淇に、このジョニー宛ての間違い電話が頻繁にかかってくるようになる。
相手は、そのジョニーの元妻らしき女性だったり、親だったり、友達だったり。
彼らは皆、徐子淇の電話番号をジョニーの電話番号だと思い込んで、電話をしてくるの。
よくよく考えてみると、気味の悪い話である。
近親者なら、電話番号くらい知っているはずなのに、
皆が皆、赤の他人である徐子淇の番号を、ジョニーの物と勘違いして、電話してくるなんて…。
もし私にそんな電話が立て続けに掛かって来たら、
私の個人情報が漏れているのだろうか?新手の詐欺か?!と恐怖感さえ抱いてしまいそう。
でも、この映画で、そんな電話を受ける徐子淇は、怒らないし、気味悪がりもしない。
電話を掛けている側も含め、みんな優しい。
恐らく黃熙監督には、このジョニーなる謎の人物の正体を解明する推理サスペンスを撮る気なんて、
元々無かったに違いない。
(同じ間違い電話が掛かり続けるエピソード自体は、
黃熙監督の友人に実際に起きた話を映画に取り入れている。)
ジョニーは、人と人を繋げる架け橋だったり、
誰もが探し求めている、ホッとできる心の拠り所の象徴なのかなぁ~と想像。
作中、もう一つ行方不明になるのが、インコ。
元々インコを一羽飼っていた徐子淇は、そのお仲間に、もう一羽を連れ帰るのだが、逃げられてしまう。
この失踪したインコもまたジョニーと同じように、
喪失感や、人々が手に入れたがる心の安らぎの象徴にも思えるし、
人と人を繋げるツールにもなっている。
実際、インコ探しをすることで、徐子淇、李立、張以風の3人が繋がり、物語が動き出す。
“物語が動き出す”などと言っても、その先も、大事件が起きたり、急展開が待っている訳ではない。
何も特別な事など起きないのだ。
そんな本作品の魅力の一つを挙げるなら、台北という街を素敵に見せていること。
現代の台北のシンボル的存在になっている台北101や夜市は、恐らく一度も出てこない。
スクリーンに映し出されるのは、ちょっとした小路や住宅街といった生活者目線の台北なのだけれど、
それがむしろ良いのです。
ロケ地の選択のみならず、映像の雰囲気も、
昨今持て囃されてる台湾エンタメ映画とは趣きがまったく異なり、
台灣新電影(台湾ニューシネマ)の頃を思い起こさせる。
黃熙監督に、侯孝賢監督のもとで働いた経験があったり、
その侯孝賢が本作品のプロデューサーを務めていることで、
どうしても侯孝賢監督作品との関連性が語られがちだが、
黃熙監督は、小学校卒業後に台湾を出て、
シンガポール、バンクーバーと移り住み、アメリカNYで映画を学んだ人だし、
プロデューサーとしての侯孝賢は、実のところ、彼女の作品に余計な助言はしなかったらしいので、
黃熙監督が直接的に侯孝賢や侯孝賢監督作品から受けた影響は少ないのではないだろうか。
むしろ、黃熙監督が生粋の台北人でありながら、海外に出ていた期間の長い人だからこそ、
“身の丈の台北”を捉える事が、すなわち“台北のツボ”になることを、
感覚的に分かっているのではないかという気がする。
ちなみに、黃熙監督にとっての侯孝賢は、師匠という以前に、パパのお友達だったみたい。
黃熙監督の父親・黃忠は、侯孝賢と高校の同級生で、
侯孝賢主演の楊昌(エドワード・ヤン)監督作品『台北ストーリー』(1985年)に
資金援助をする程の大親友。
資金調達に苦労したその『台北ストーリー』は結局4日間で上映打ち切りとなってしまったため、
『悲情城市』(1989年)のヒットまで、借りたお金を返済できなかったというのは、有名な話。
『憂鬱な楽園』(1996年)のプロデューサーの一人として名を連ねている“黃忠”も、
恐らく、黃熙監督のパパのことだと見受ける。
大親友の娘・黃熙の監督デビュー作で、プロデュースを買って出た侯孝賢は、
必要以上のお節介を焼かず、彼女に自由に撮らせて上げたわけだけれど、
裏方さんに、信用のおける自分の御用スタッフを準備して上げたのも、また事実。
映画のクロージングを見ていたら、撮影に姚宏易(ヤオ・ホンチー)、編集に廖慶松(リャオ・チンソン)、
音楽に林強(リン・チャン)等がクレジットされていた。
あまりも“侯孝賢”の名を出されて比較されることに、
黃熙監督自身はもう「ウザッ…」と呆れているだろうけれど、
でも、本作品を観ていて、やっぱり侯孝賢監督っぽ~い!と思ってしまったシーンは幾つか有った。
内容ではなく、視覚的、表面的な部分である。
例えば、トンネルや夜の歩道橋(?)のシーンは『ミレニアム・マンボ』(2001年)、
電車が互い違いに走行してゆくシーンは『珈琲時光』(2003年)といった具合に。
中心となる3人を演じているのは、こちら(↓)
赤いポンコツ車を寝床にしている青年・張以風に柯宇綸(クー・ユールン)、
インコを飼っている一人暮らしの女性・徐子淇に瑞瑪·席丹(リマ・ジタン)、
徐子淇と同じ建物に住むコミュニケーション下手な少年・李立に黃遠(ホアン・ユエン)。
日本の映画公式サイトには、3人とも黃熙監督が出逢った実在の人物がモデルと記されているけれど、
私が読んだ台湾のインタヴュ記事には、張以風と徐子淇には、明確なモデルがおり、
李立だけは架空と記されていた。どちらの情報が正しいのかは、不明。
とにかく、3人とも、当初、どういう背景で、何をして生活している人たちなのか、よく判らない。
張以風は、工務店のような便利屋のような仕事をしていて、人々から頼りにされている。
彼自身、頼られる事を嫌がらず、自然に笑顔で応対する“イイ人”。
でも、その内、そんな明るく穏やかな彼にさえ、
親の離婚や、故郷を離れた台北での孤独な暮らしといった影の部分があることが見えてくる。
今の台湾で、この手の映画で、この手の役を演じられる、その世代の俳優といったら、
柯宇綸か莫子儀(モー・ズーイー)の二択という気がするので、
柯宇綸のキャスティングは正解に感じたし、実際に良かった。
もう一人の男性・李立を演じている黃遠は、二世俳優。
歌手から俳優に転身した黄仲昆(ホアン・チョンクン)が最初の妻との間にもうけた長男。
顔は可愛らしいのに、頭一つ分父親より小さなプチサイズなので、
いくら親が有名人でも、売れないだろうと思っていたが、
本作品で見て、こういう使われ方が有ったのかと感心した。
黃遠は、1991年生まれだから、30に手が届く青年。
扮する李立の年齢設定は不明。何らかの発達障害を持っていると思わせる。
20代ももう後半の黃遠が、そんな純粋でデリケートな幼い子供のような男の子・李立に成り切っているの。
この李立が、たまに鋭い事を言う。
「飛んでいる鳥でも、一瞬は止まっている。じゃぁ、次の瞬間は?」とか。
フィルムの一コマ一コマのように、一瞬一瞬は止まっているけれど、それらを繋げることで前進する、
人も同じで、歩みを止めることがあっても、それでも前に進んで行く…、という前向きな表現と私は捉えた。
瑞瑪·席丹扮するヒロイン・徐子淇も謎多き女性である。
職業を聞かれ、ヨガ講師と答えているが、ヨガを教えているシーンは無く、
安ホテルのレセプションで仕事をしているシーンなら有る。
見た目は明らかに混血で、喋ると、中国語(北京語)の中に、しばしば英語が混ざる。
その後、広東語まで喋っているから、益々「・・・?」
で、後々、香港に7歳の娘がいると判明。
徐子淇に経済的援助ができる台中在住の王志偉という男性と付き合っているけれど、
彼が娘の父親とは考えにくい。
演じている瑞瑪·席丹は、レバノン人の父と台湾人の母をもつ混血。
これまでモデルや司会業をしていて、本作品で長編映画デビュー。
第54回金馬獎では、最佳新演員(最優秀新人賞)を受賞しているので、期待して本作品を観たのだが
(画像左は、金馬獎授賞式のレッドカーペットを歩く瑞瑪·席丹と黃熙監督)、
正直言って、私好みの女優さんではなかった。
ミスキャストと言っているのではない。むしろ役には合っている。
混血の容姿や、数ヶ国語を流暢に喋る様子は、
徐子淇が、色んな国々を漂流し、その度に色んな物を背負ってきた女性であることを想像させる。
但し、侯孝賢監督作品における舒淇(スー・チー)のような魅力は、瑞瑪·席丹には感じなかったし、
他の映画でもまた彼女の演技を見てみたい!という気は起きなかった。
他、脇では…
張以風の高校時代の恩師で、友人・張致豪の父親でもある張啟元に張國柱(チャン・グォチュウ)とか、
その張啟元と親しい角叔に高捷(ガオ・ジェ)といった、台湾映画でお馴染みのベテランが配されている。
そういう“いかにも”な俳優ではなく、私がキャスティングを“サプライズ”と感じたのは、
徐子淇の恋人・王志偉の役で出演している、タイの華人俳優・唐治平(タン・ジーピン)である。
超久し振りに見ました、唐治平!すでに40歳だって。
でも、無駄に鍛えた胸筋は相変わらず。
少ない登場シーンなのに、その約1/3は、半裸であった(笑)。
私は、原題と掛け離れた邦題を付けることや、
正式公開の際に、映画祭上映時と異なる邦題を新たに付ける事に、基本的には反対。
昨今、映画好きな人は、大抵かなり前から、ネットを通じ、現地情報で作品を知っているため、
日本ならではの邦題を付けられてしまうと、混乱するし、
わざわざ工夫を凝らして付けた日本ならではの邦題に、趣味が良いと感心できる物が、ほとんど無いから。
事実、本作品も、原題の『強尼·凱克』や、フィルメックス上映時の『ジョニーは行方不明』で記憶していたため、
『台北暮色』と聞いても、当初ピンと来なかった。
また、その邦題から、近年の台湾ブームにまんまと乗った、台湾大好き女子を狙った
陳腐なオシャレ映画を想像してしまった。
ところが、実際に本作品を観たら、確かに『台湾暮色』というタイトルがシックリはまる作品であると感じた。
「結局のところ、台湾大好き女子を狙った陳腐なオシャレ映画だった…」と言っているのではなく、
台北の黄昏た雰囲気を上手く捉え、台北という街を魅力的に表現した作品であったという意味。
他人からは分かりにくい、小さな問題や悩みを抱えたごく平凡な人々の日常を淡々と描きながら、
時に立ち止まることがあっても、それでも少しずつ前進していくと感じさせる物語も、
ホッコリとした余韻を残してくれて、良かった。
敢えて残念ポイントを挙げるなら、主演女優・瑞瑪·席丹を見て、
「この作品を通し、また大好きになれる新たな女優さんに出逢えた!」と感激できなかったこと。
キャスティングについて黃熙監督も、「そもそも台湾には女優の選択肢がそんなに無い」と語っているように、
台湾芸能界の人材不足は深刻だと感じる(もちろん、日本も他人事ではないが…)。

第54回金馬獎については、こちらから。