【2015年/日本・フランス/126min.】
1920年代、フランス・パリ。27歳でこの地にやって来て早十年。藤田嗣治が描く乳白色の肌の裸婦は評判で、日本人でありながら、パリでは引く手あまたの有名人。モンパルナスのカフェ、ラ・ロトンドで、時代の先端をいく画家やモデルたちと集う華やかな日々。1940年、第二次世界大戦を機に日本に帰国。5番目の妻・君代と静かに暮らしながら描いているのは戦争協力画。決戦美術展覧会では、自分の絵に打ち震える大衆を目の当たりにし、一種の感動をおぼえる。

今回改めて小栗康平監督のプロフィールを見たら、1945年生まれの70歳。
『泥の河』(1981年)で監督デビューし、この新作で6作目とは、手掛けた作品が非常に少ない。
一本一本が濃密なせいか、もっといっぱい撮っているような錯覚を抱いていた。
この新作は、ズバリ、画家・藤田嗣治(1886-1968)の半生を描いた作品。
一般的な伝記映画は、ある人物の人生を履歴書のように追いながら紹介していくものだが、
小栗康平監督がそのような映画を撮るとは考えにくいと思っていたら、案の定違った。
藤田嗣治がフランスへ渡ったのは、
第一次世界大戦が始まる一年前、1913年(大正2年)、27歳の時だけれど、本作品の幕開けは1920年代。
下積み時代はふっ飛ばし、藤田嗣治はすでにパリの寵児。
2人目の妻フェルナンド・バレエには浮気されるが(あの相手は小柳正?)、
“ユキ”ことリュシー・バドゥと3度目の結婚をし、パリの有名人たちと交流。
描く絵も勿論高く評価され、後続の日本人たちも羨む存在。
このように、作品前半は、藤田嗣治の
パリでの華やかな日々が描かれる。

その後藤田嗣治はユキとも別れ、マドレーヌ・ルクーを4人目の妻に迎えるも、1936年、彼女は急死。
1939年には第二次世界大戦が勃発し、1940年5月、陥落直前のパリを脱出。
…が、映画では、そこら辺は
バッサリ端折られ、

舞台は華やかなパリから一気に戦時下の日本へ移る。
すでに白髪交じりの藤田嗣治の傍らには、5人目の妻・君代。
戦争協力画を描き、日本の画壇からも軍からも一目置かれる存在となっていく。
このように、作品後半は、
敗戦の色濃い日本での日々が描かれる。

実際の藤田嗣治は、戦後、戦中戦争協力画を描いたことで批判され、日本を去って、再び渡仏。
フランス国籍も取得し、カトリックの洗礼を受け、“Léonard(レオナール)”の洗礼名を授かり、
2度と祖国の土を踏むことはなかったのだが、本作品ではそこまで描いていない。
藤田嗣治についてよく語られる
“フランスでリベラルに生きてきた画家が、なぜ一転して戦争協力画を手掛けたのか?”とか
“その後本人はその事実をどう感じていたのか?”といった事は、
含みを持たせ、観衆に想像の余地を残している。
そんな藤田嗣治(1886-1968)を演じているのはオダギリジョー。
藤田嗣治といえば、坊ちゃん刈りに丸眼鏡とチョビ髭がトレードマーク。
おまけに名前が、“レオナルド熊”を彷彿させる“レオナール・フジタ”だから、
私が子供の頃に抱いていたイメージは、著名な画家というより、コメディアンに近い変テコなおじさん。
その後も、容姿に関しては、“面白い”、“唯一無理”とは思っても、“素敵♪”と思ったことは無いので、
一応美男に分類されるオダジョーがこの藤田嗣治を演じると知った時は、ピンと来なかったが、
役の扮装をしている写真を見たら、笑っちゃうくらいモロ藤田。
オダジョーは美男でも個性派だから、案外ハマってしまうのですねぇー。
この扮装に耐え得る俳優が他に居るだろうか。考えたが、まったく思い付かない。
喋り方などは、私がイメージしていた藤田嗣治本人よりおっとり穏やか。
勿論実際どうだったかを知らないので、こういう藤田像も大いにアリ。
妻・君代(1911-2009)に関しては、どういう人だったのか、あまり考えたことすら無かった。
当時の“25歳も若く美しい日本人妻”といったら、
いつも夫より3歩下がっている慎ましやかな女性を想像してしまいがちだけれど、
中谷美紀が表現する君代は、そういう感じではない。
遠目には着物が上品な純和風マダム。でも、近寄ると、眉を極細アーチに描いたモガ。
性格は、出しゃばりとまではいかないまでも、へつらわず、結構ズバズバと歯に衣着せぬ物言い。
確かに、フランスに20年暮らし、3人のフランス人女性と結婚歴のある男性が、
奥床しいだけの日本人女性に満足する訳がない、と中谷美紀版君代像に説得力を感じた。
ふたつの反物を手にどちらが良いかと悩んでいる君代に、
藤田嗣治が言う「両方買えばいい。女の人はお金をかけた方が美しくなる」という言葉からも、
すでにフランス的になっている彼の感性や、
求めているのが“当時の日本人らしい日本人女性”ではない事が感じられる。
そういう所にはうちの祖父が重なり、親近感が湧いた。
フランス人の前妻たち、マリー・クメール扮する2人目の妻フェルナンド・バレエ(1893-1974)も
アナ・ジラルド扮する3人目の妻“ユキ”ことリュシー・バドゥ(1903-1964)も実在の人物だが、
後で登場する君代の方が個性が強いせいか、私の中で印象が薄れてしまった。
アンジェル・ユモー扮する“キキ”ことアリス・プランは(1901-1953)は、少ない登場シーンでも記憶に残った。
多くの著名芸術家のモデルとなった“モンパルナスのキキ”は、
取り分け、愛人関係にあった
マン・レイの写真で有名。

日本でも、誰もが一度はこのキキを目にしたことがあるのではないだろうか。
この映画の中のキキは、交友関係の広い人気者には見えるけれど、
多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたミューズならではの神秘性やカリスマ性は
あまり感じられないかも。気風のいいリーダー格のオバちゃんって感じ。
芸術家は純粋に作品で評価されると信じたいが、
実際には(特に欧米では)、作品以上に自己プロデュース力が重要になると感じることがしばしばある。
藤田嗣治は、故意か無意識かは不明だが、まさにそこに長けていた人に思える。
極東の島国からやって来た黄色人種は、下手すれば、フランス社会の中で見下されただろうに、
藤田嗣治はマイノリティであることを逆手にとって、自分を稀少で神秘的な存在に昇華させ、
自分自身と作品の評価を高める才が有ったように思う。
本作品を観ると、彼のそういう“時代や環境のニーズを捉え、適応していく”という才能は、
戦時下の日本でも発揮されていたのではないかと思えてくる。
当時の日本人には珍しく、外の世界を知っていた藤田嗣治が、いくら身内に軍関係者が多いからといって、
日本に帰国した途端、国粋主義に走ったとは考えにくく、当時の軍や国の空気を読み取り、
良くも悪くも柔軟に現実を受け入れ、供給したのが戦争協力画だったのかなぁ、と。
パリで描いていた東洋的で繊細な絵と、戦時下の日本で描いたヨーロッパ古典主義的な絵が
あまりにも異なるのも、“需要に合せた供給”と思ってしまう要素。
そのように片付けてしまうと、藤田嗣治は芸術家というより、まるで計算高い商人のようだが、
逆に、己の気持ちに正直に従ってしまう芸術家中の芸術家であったという、相反する想像も湧いてくる。
戦争協力画に関しても、もしかして、絵を描くことがあまりにも好き過ぎて、
「こんな時代でも絵を描き続けたい!」とか「これまで描いたことのないタイプの絵に挑戦したい!」という
芸術家としての純粋な欲求から描いた気もする。
実際の藤田嗣治の心の内はもはや知ることは出来ないが、
この映画の中の彼は、日本が行っている戦争をかなり冷めた目で見ているのだ。
「絵は所詮絵空事」とか、陸軍から与えられたマントを着ながら
「絵描きは放っておくとどんどん洗練されてきてしまうから、ゲスで悪趣味でも、たまにはこういうのが必要」
といった台詞が印象に残る。
また、「私は、十字架に張り付けにされたキリストを20年も見てきた」という台詞も意味深。
映画の最後の最後には、1966年、御年80の藤田嗣治がフレスコ画を手掛けた
フランス・ランスに現存する
Chapelle Foujita(シャペル・フジタ/フジタ礼拝堂)が映し出される。

キリストの磔刑図の右側に描かれた群衆の中には藤田嗣治自身の姿。
2度の世界大戦体験や、戦争協力者の罪を被され、二度と戻ることのなかった日本に
どのような想いを抱きながら、晩年の藤田嗣治がこのフレスコ画を描いたのかと、想像が膨らむ。
…と、こうも色々書くと、
本作品が観ていてワクワクさせられるドラマティックな伝記映画だと勘違いする人が居るかも知れないけれど、
それを期待して観ると、恐らく激しく失望することでしょう。
人物にしても時代背景にしても、具体的な情報を事細かに観衆に与えてくれる親切な作品ではないので、
でも、映像はほとんどの人が美しいと感じるだろうし、軽妙な台詞なども無いわけではない。
フランス人の前妻たちを絹やヴェルヴェットに例え、
最後に「私は布に例えると何かしら」と尋ねてきた君代に、
「今は物資が不足している時代だからね」と言葉を濁す藤田嗣治にはユーモアを感じた。
それにしても、後世で映画になるような人は、当たり前だが、やはりどこか人とは違う変わり者である。
藤田嗣治って、石川啄木や谷崎潤一郎と同じ年らしい。
あの時代の日本に、耳輪している男性なんて他に居る…?!
ちなみに、タイトルのスペルは、日本語のローマ字に倣った『FUJITA』ではなく、
フランス語の発音に寄せた『FOUJITA』。“U”じゃなくて“OU”。正しい『FOUJITA』を入力しているのに、
「『FUJITA』の検索結果を表示しています」なんて要らぬお節介ですわ。